壮 絶 ・ 見 聞 録
2011/ 6/13  記
津波が去って日も暮れようとしてた頃・・・・・水の中で、水没した瓦礫の中で
多くの 「助けて!」  「助けてくれ〜!」 の声が聞こえた。
しかし、助けに行こうにも水没してるので、そこへ行ける手段が無い・・・・・
やがて・・・・・夜が更けて行くと共に声は・・・・・細くなり・・・・・夜半には・・・・・声がしなくなった・・・・・
私が実際にこの目で見て、この耳で聞いた「事実」です。このページは気の弱い方は見ない方が良いかも知れません。
記述している私自身も・・・・・涙を抑えられません・・・・・胸が張り裂けそうです・・・・・気が変になりそうです・・・・・
家にいた年老いた母親、息子夫婦とその幼い我が子
濁流となって襲った津波に必死で抗い、瓦礫に掴まっていたが、妻は我が子を抱いたまま流されて行った・・・・・
やがて母親も力尽き 「お前には世話になった・・・今までありがとう・・・」 と言い残し流されて行った・・・・・
目の前で大切な人を次々と津波にさらわれ、たった一人生き残った息子は 「何かしていないと気が狂いそうだ」 と黙々と仕事をしている・・・・・
女川町尾浦漁港
津波から船を守るため、沖でやり過ごそうと船を出したが時すでに遅く、津波は目前に迫り相当な高さに達していた。
船は津波に向かって真っすぐに進んで行ったが、ほぼ垂直近くまで立ったかと思った次の瞬間、船尾から沈んで行った・・・・・
堤防が津波で吹き飛ばされた地区に自動車整備工場があった。
堤防からは200m程離れている。地震後、外にいた工場長が立ち並ぶ家の間から僅かに見える
堤防を何気なく見ると、信じられない事に堤防の上を漁船が流されて行くのを見た。
津波の襲来を察知し 「逃げろ〜っ!!!」 とそこにあった車に全員乗り、高台へ避難して難を逃れた。
津波に呑まれ水中に没し、必死にもがいたが瓦礫に遮られ、どうする事もできなかった。 「もはやこれまで」 
と観念したその時、僅かな瓦礫の隙間から一筋の光が見えた。そこへ向かって瓦礫の隙間をかいくぐり、水面に出られた。
石巻市立大川小学校
避難のため、校庭に集まってた生徒。そこへ保護者が迎えに行った。子供を車に乗せ、近所の娘も一緒に乗せて行こうとしたが
先生に 「保護者ではありませんのでだめです」 と止められた。
「先生、俺は学校行事にもよく来てるし、先生とも何度も話してるから誰だか分かるよね?」
「・・・分かります」
「この娘の家の近所だって事も、もちろん分かってるよね?」
「・・・はい」
「じゃ、何も問題無いじゃないですか、一緒に乗せて帰ります」
「だめです。保護者以外の人には引き渡せません」
顔見知りの先生に二度も断られたので、時間が無いと諦めて車を走らせた。
その直後、大川小学校は大悲劇の現場となり、その娘も帰らぬ人となった。
石巻市立大川小学校 2
我が子を失った親。新北上大橋の袂に生徒の遺品が集められた。
遺品のランドセルを引き取ったその刹那、ランドセルに取り付けてあった防犯ベルが鳴り出した。
どうやっても止める事ができず、水を被ったので壊れたんだろうと、そのまま車に積んで家に向かった。
車の中で鳴り続けていたその防犯ベルは、自宅に着いたとたんに鳴り止んだ・・・・・
親は一言 「迎えに行って・・・・・家に着いたのが分かったんだ・・・・・」
牡鹿半島の海に面した地区。震災前は数十戸の住宅があったが、瓦礫すら無く、砂浜と化していた。
我が目を疑った。まるで昔からそこには何も無いような景色だった。

・・・・・一つの集落が痕跡すら残さずに消滅していた。
この牡鹿半島周辺には震災翌日、海岸の瓦礫の中に多くの遺体が見られた。だが・・・
瓦礫の凄まじさに加え、海の中という悪条件が重なり、しばらくの間は遺体収容に行けなかった。
兄と叔父と三人で我が家へ向けて船を漕ぎ出した。
私が舳先で櫂を漕ぎ、兄が中央で竹竿を立てて船を進めた。船を出して間もなく兄が 「人・・・じゃないか?」 「えっ?」 慌てて船を止め、バックした。そこには、立った状態で少し前かがみになり両手をうなだれて、頭上から水面まで約30cm程、完全に水没している男性の老人らしき遺体があった。この日はベタ凪ぎで、さざ波すら立っていない状態だったので見つけられたのだろう。すぐに携帯から110番通報した。
「はい、110番です」
  「大槻と申します。水死体を発見しました」
「はい、それは今回の震災でと言う事でしょうか?」
  「そうです」
「どういう状況ですか?」
私達が見た先ほどの状態を伝えた。
「ちょっとお待ち下さい・・・・・現在地から北西の方角800m程の所に大槻さんというお宅がありますが・・・」
  「はい、私の家です。今、ボートでそこへ向かう途中で発見しました」
「・・・そうでしたか、水深はどれくらいありますか?」
  「ここだと・・・田んぼの上なので・・・2mくらいでしょうか?」
「何か目印になるようなものはありませんか?」
この時点で既に近くの電柱を目指して辿り着こうとしていた。我々電気工事屋は初めての現場へ行く時、電柱番号を教えてもらえば近くまで行き
線路名さえ見つければ、後は番号を辿るだけでその場所まで行ける事が念頭にあったから・・・
  「最寄りの電力柱番号を言います。「福地幹線#2」 です。この電柱から西の方角7mくらいの所に・・・います」
「はい、分かりました。・・・出来ましたら何か目印を置くような訳には・・・いきませんか?」
足元を見たら船の中に竹竿が余分にあった。
  「ではそこに竹竿を立てて行きます」
「ありがとうございます。何か情報が欲しい時はこの携帯番号へ電話してよろしいでしょうか?」
  「はい、構いません。あと、数時間は家にいますので、必要であれば現場の方に伝えて下さい」
「はい、情報を大変ありがとうございました」

三人で合掌し、その場を後にした。

間もなく警察と消防が来て、遺体を収容して行った・・・・・
北上町釜屋崎
新築して二ヶ月足らずの家に子供達が遊びに来ていた。津波が来たので9人全員が二階へ避難したが家ごと流された。やがて一階と二階が分断され、9人を乗せた二階部分は成す術も無く津波に翻弄されながらそのまま1km程流された。電柱にぶつかって止まり、翌日救出された。
震災から四〜五日目頃、地区の人とボートを漕ぎ出し、再び我が家へ向かっていた。水没する前の 「区切り」 が無くなってしまったので、そこは数百町歩もある広大な水田のど真ん中の・・・・・真上という事になる・・・・・流木や何台もの水没した車の屋根だけが見え、遠くに壊滅した家が点在していた・・・・・
「信じられない風景だな・・・」
「湖みたいだ・・・」
「俺達が老人になった時、これから生まれて来る子供たちに、爺さん達はあの津波の時
 ここを船で行き来したんだぞ、って話すようになるのかな・・・」
「話しても信じられないだろう・・・ ボケじじい扱いされるのオチだ・・・」
2011年 3月11日 東日本大震災 〜断絶の日常〜
北上町月浜
月浜は北上川河口に位置している。新築されて間もない石巻市役所北上総合支所の二階へ多くの住民が避難していた。隣接する吉浜地区で仕事をしていた人が、大津波警報が出たのですぐ近くの河口へ様子を見に行くと、見上げるような大津波が目前に迫っていた。慌てて車へ戻り乗り込もうとした時、数百mは離れている北上総合支所から「キャーッ!!!」という多くの悲鳴が聞こえたが次の瞬間、まるで切って落としたかのようにピタっと悲鳴がしなくなった・・・・・
南三陸町戸倉中学校
この中学校は海面より25m程の高台に位置する。津波で流された車がそこに建つ体育館の屋根に打ち上げられた。乗っていた人は無事で車もエンジンが掛ったが、どうする事もできなかった。
3月11日夜、石巻市内各地が津波で水没して分断したため、腰から胸ほどまで冠水した道路を覚悟を決めて家に向かった。数えきれないほどの水死体をかき分けながら・・・・・
翌日、明るくなると石巻市各地域では至る所で・・・・・ガードレールや電柱の上にまで遺体が見られた・・・・・
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巨大津波襲来  3月12〜 現実感の無い日々  我 が 家 へ  獅子奮迅!!! 災害ボランティアさん達の活躍  希 望 〜 復興へ  後 記

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