2011年 3月11日 東日本大震災 〜断絶の日常〜
未曽有の大災害となった東日本大震災。
震災直後からラジオ以外の情報は全てシャットアウトされ、その唯一の情報源からの報道を聞きながら翌12日未明以降、私の目に飛び込んできたものは・・・ 山紫水明、緑豊かな私が愛してやまない郷里の変わり果てた姿でした。
私の家は海岸線から直線距離で5〜6kmほど内陸部へ入った地にあり、地盤も堅固でこれまで地震による被害を受けた事は一度も無く、ましてや津波なんて無縁の話でした。今回の震災では悪夢としか思えない巨大津波の被害に遭い、平和な日常は
「断絶」、 着の身着のままで作業車に積載してある物以外全て失い、そこから
「非日常」 の毎日が始まりました。
2011年 6月2日 ほぼ、現在の衛星画像です。私の家は中央より左下あたりにあります。今頃の季節は田植えも終わり、綺麗な若草色の田園風景が広がっているはずでした。土色している部分のほとんどが水田です。作付できるのは何年後になるのでしょうか・・・
津波直後の衛星画像です。右上の北上川の堤防が終わっている少し先が震災前の海岸線です。震災から3週間以上、地域全体が水没したままで、ボートでなければ家に近づけませんでした。
3月11日 魔の14時46分
私は電気工事業を生業としており、その日も石巻市蛇田地区にある県営住宅の空室補修工事をしていました。鉄筋コンクリート造り三階建ての二階で工事をしていたのですが、地鳴りと共に立っていられないほどの強烈な揺れを感じ、そしてそれはこれまで経験した事が無いほど長時間続きました。私の住む同一屋敷内には兄の家と私の家があるので、すぐに兄に電話 「いや〜すごい揺れだったけど被害無いよね?」 「お〜♪ナベが一つ二つ落ちた程度だ。これって宮城県沖地震かな?ははは・・・♪」などと談笑していたのです。この時は・・・
その後、余震が続く中、普通に仕事を進めてたのですが、外ではけたたましくサイレンが鳴り響き、人も大勢見かけられましたが、地震直後停電になったし、電力柱でも大きく揺れ、配電線(6600V)が切れて電力会社の車でも走り回っているんだろう程度にしか考えてませんでした。
15時30分頃に作業を終了し、外へ出ると被害の大きさが徐々に分かってきました。道路は至る所で陥没や隆起し、電力柱は大きく傾いています。そして元請会社へ向かう途中、幅15mほどの川が、これまで見た事も無いような真っ黒い大量の水を伴い、今にも道路まで溢れんばかりに逆流してました。
「津波だ・・・!」
この時、生まれて初めて津波の襲来というものを目の当たりにしました。定時前なのに元請会社は既にシャッターが降り、誰も居なくて 「???みんな逃げ足早いな〜♪」などと、この時点ではまだ楽観視してました。我が家が津波で壊滅的な被害を受けてるなんて夢にも思わず・・・
17:00を過ぎた頃、私は北上川沿いの堤防を走り、家へ向かっていたのですが、途中から海岸線によく見られる松の木(10m以上)や、その他の雑木が根こそぎ引き抜かれたような流木が堤防上の道路に散乱し始めました!
「なんだ?これは・・・!!!」
川面から堤防上までの高さは優に5m以上、川幅は200〜300mはあり、さらにこの辺りは海岸線から10kmも手前で、辺り一面には重油の匂いも漂っていました。「津波がこの地点で堤防を越えた? ・・・そんなバカな、有り得ない・・・しかしこの流木は・・・!」 事この期に及んでも、まだ目の前で起きてる事が信じられず、家路を急ぎました。途中、通行止めで渋滞、迂回を繰り返し、消防の制止を振り切り、堤防から我が家の方向へ降りる交差点で車はそれ以上先へは進む事ができません・・・
堤防の下は・・・水没して道路がありませんでした・・・
「ここまでか・・・」
この地点から家まで僅か500mくらいです。しかしこれ以上はどうする事もできません。辺りは電気も消え漆黒の闇で雪も舞っています。工事用のハロゲン懐中電灯で水面を照らして見ると、僅かに下流側へ動いています。「明朝まで水が引いて道路が使えるようになるかな・・・兄貴は無事だろうか?・・・家の方は床上までいったかな?床下で済んでればいいな・・・」 逆側の、堤防から下の北上川を見れば、いつもよりだいぶ水位が上っていて、津波が何度も押し寄せていました。
この水はどこから・・・
明朝までに道路が使えるようになる事を祈り、堤防脇に車を止め車中で寝たのですが、夜中に何度も起きて水位を確認している何度目かに、水が上流方向へ動いているのを確認しました。
「なぜ???堤防からこちら側への水の侵入路はずっと下流の小さな水路しか無いはず、ここまで冠水してるのに、この水はどこから???」 ・・・・・それは翌朝、驚愕の事実となって私の目に飛び込んできました。
3月12日 「堤防が無い!」 「大橋が・・・無い!」
3月12日未明、5:00過ぎくらいだったでしょうか・・・目を覚ますと外には同じ地区の顔見知りの人達が数人いました。水位は昨夜と変わってなく、全く下がる気配はありません。津波が襲来した時は何処にいたとか、夕べは道の駅で一夜を明かしたとか話してるうちに、「ちょっと向こうへ行って見ようか?」という事になり、夜も明けきらぬ薄暗い中、堤防を下流側へ皆で歩き始めました。この堤防上の道路は県道30号線ですが、わずか数百m進む間でさえ大きく陥没していたり、アスファルトが片側車線だけ数mに渡って何か所も剥がされていました。足元に注意しながら歩を進めるうちに、「堤防・・・無いんじゃないか?」 「そんなバカな・・・」 「だってほら、堤防下の家の一階が見えるよ」
「あっ!」
この堤防は私達の進行方向に向かって左側へ湾曲しています。確かに堤防があった時は見えなかったはずの家の一階部分が見える・・・
「橋が・・・無い」 「寝ぼけてるのか?目の前にあるだろう」 「いや、北上町側・・・」
「あ、あ・・・」
国道398号線の北上川に架かる新北上大橋は全長約500m程の大橋で、北上町側でピア2スパン分、橋が落橋し無残にも川の上流数百mの所にトラス構造の橋の残骸が川面から見えていました・・・
徐々に明るさが増してくると、その全貌が明らかになってきました。堤防の左側が北上川、右側は宅地です。ここには数十戸の住宅があったのですが・・・壊滅です・・・
場所にもよりますが、通常は川面から堤防上まで4〜6mくらいの高さがあります。
堤防は決壊などという生やさしいものではなく、6〜700mに渡って全て吹き飛ばされていました。この地点から我が家までは直線距離で1kmくらいでしょうか、一向に水が引かない訳が理解できました。北上川と繋がっているのですから・・・
堤防が切れてる部分から水面までは3mくらいあります。正面の山の左部分から新北上大橋が架かっています。
新北上大橋です。橋の左側部分がありません。この橋の右側から下がって行った所に生徒、教職員合わせて80名以上が犠牲になった石巻市立大川小学校があります。小学校内の捜索に加わった消防団員の話によると、瓦礫の中にランドセルが見えるとそこに必ず 「いる・・・」 のだそうです・・・
私も11年間消防団員を務めてましたが、勝手な言い分と思いつつ、あえて言わせて下さい。〜退団してて、そんな悲劇の現場に居合わせなくて・・・良かった・・・〜
また、はるか数十kmも離れた金華山沖、東松島市の海岸、石巻市に隣接する町の川岸でも生徒の遺体が上がったそうです
こんな悲劇が あって いいのでしょうか
この大震災では警察、自衛隊、消防署員、多くの消防団員自身が被災者であるにも関わらず、懸命な救助、捜索、復旧作業に昼夜を問わず従事してくれています。ただただ、感謝の気持ちで一杯です。百万語の御礼の言葉を述べても言い尽くせません。
皆さん、大変ご苦労様です そしてありがとうございます・・・・・
新北上大橋を襲った津波動画です
石巻市立大川小学校の近くに押し寄せた津波
・・・東日本大震災による犠牲者の方々へ深い哀悼の意と共に魂の安らかなる事を・・・
5月29日北上町側にて撮影
2011/ 6/2 記
巨 大 津 波 襲 来