2011年 3月11日 東日本大震災 〜断絶の日常〜
後 記
2011/ 8/31  記
不幸中にも幸いした事
この大災害でも、私にはいくつかの幸運な事がありました。どれも普段であれば取るに足らない事ですが、災害中では大変に重要な意味を持っていました。

身体
まず、身体が傷一つ無く無事であった事。これは普段でも何にも勝ります。

燃料
作業車の燃料がほぼ満タン近くあり、約600km程の走行余力がありました。数週間も給油できない状態が続いた中、私は比較的自由に車を動かす事ができ、親戚、知人の安否確認や諸連絡の大きな力となりました。

防寒着 カッパ 長靴 ヘルメット ゴム手袋
これは作業車に積載してあったのですが、防寒着のお陰で寒さに震える事も無く、カッパ、長靴、ヘルメット、ゴム手袋があったお陰で、雨や雪の日の行動でも身を濡らさずに行動できました。この災害時には大きな役割を果たしてくれました。

アメ玉と水
これも作業車にあった物です。アメ玉は5〜6個くらいしか残ってませんでしたが、11日夜はこれで飢えをしのぎました。11日の夕方、家へ向かう途中、真っ先に思い浮かんだのが食料と水の確保ですが、コンビニや商店はどこも閉まっていて、たまたま開いてたコンビニは、地震の影響で店の中がメチャクチャの状態でしたが、数量限定でお茶(水は既にありません)とカップラーメンを何と「代金は落ち着いてからで良いですから」と名前と電話番号を伝えるだけで分けてくれました。夜中に堤防脇の車中で「何とかお茶を沸かしてカップラーメン食えないかな」と思い、作業車には工事で使うトーチランプが積んであったので火はあるのですが、お茶を沸かす容器はさすがにありません。ですが、このアメをなめてただけで、かなり空腹を紛らわす事ができました。

ハンコ
二度目にボートで我が家へ行った時、瓦礫と水の中に銀行印が携帯用のケースに入ったまま浮いてるのを見つけました。銀行印があるのと無いのでは、その後の手続きに大きな差が出た事でしょう。

山越えで通じた携帯
数日間通じなかった携帯は山越えしてる時、山頂で辛うじてメールの送受信だけはできました。横須賀に住む姉や姪っ子への諸連絡はこの時だけでもできたのでかなり助かりましたし、姉達も定期的に連絡があるので多少は安心した事でしょう。



地盤沈下
堤防から川面を見ると、地盤沈下の証が見られます。満潮時には堤防の根本まで水位が上がるのです。堤防下は数mから場所によっては数十mの河川敷が広がり、震災以前はその先から川がありました。北上川上流で大雨でも降らない限り、満潮時でも堤防下まで水が来る事はありませんでした。

目測ですが、震災地域全体が数10cm〜1m前後、地盤沈下したものと思われます。



嬉しかった事
震災から1ヶ月ほど経ったある日、避難先の親戚の家に、私宛に一通の手紙が届きました。もちろん住所は被災した我が家のままですし、郵便局にも一時避難の届けはこの時点では出していません。よく私の避難先が分かって届けてくれたものです。(郵便局さんありがとう!)この手紙の差出人ですが、私が和太鼓をやっていた頃、「佐渡の國 鼓童」が主催していた「鼓童塾」参加者からのものでした。鼓童塾とは廃校になった学校(鼓童研修所)にて、4泊5日の合宿形式で太鼓の基礎を学ぶ所です。私が参加したのはもう20年くらい前だったと思います。しばらくは参加者同士で交流があったのですが、ここ数年は年賀状ですら疎遠になっていた旧太鼓仲間が「みんなが心配しています。何か私達にできる事はありませんか?」と手紙をくれたのです。「必要な物資を送ります!何が必要ですか?」と何度も連絡を頂き、「とりあえず避難生活するのに必要な物はあります。心配して連絡を貰っただけで十分です。ありがとう!」という連絡を何度かしているうちに、何と・・・この方達が多額の募金を送ってくれました。・・・・・何とも言葉にならないほど嬉しかったです。
そしてその後、チャリティコンサートまで開いてくれて入場料は全額、義援金に寄付してくれたとの事です。奥西さん 山田さん 大越さん 五十嵐さん 金沢さん 斉藤さん 竹田さん 船木さん そして明星学園和太鼓部のみなさん本当にありがとうございました。
さらば愛しの愛機たち・・・
流失を免れたオーディオ機器は折を見て出来る限り再生しようと思ってましたが、現段階ではとてもそんな余裕など無く、洗浄した時はそこそこ再生出来るかも知れない状態でしたが、ごらんの通り洗浄後も腐食が進み、鏡面仕上げのSV−2のシャーシは艶を失い部分的に黒ずみ、プリアンプは鉄、アルミ共に手の施しようが無いくらい腐食が進んでしまいました。コンデンサー、抵抗等は言うに及びません・・・ 断腸の思いで廃棄する事にしました。残ったのはカールホーンのみになりましたが、こちらも傷だらけで補修には相当な時間がかかると思います。
我が家にぶつかって外壁に穴を開けた漁船は未だに撤去されてません。市役所には撤去申請をしてあるのですが、来月から始まるリフォーム工事の妨げになるため再度、申請してきました。
石巻市の北上川河口に架かる日和大橋付近には、金属の瓦礫が山積みされています。この通りはこういう景色が延々と続くのですが、被害の甚大さを感じずにはいられません。
2011/ 9/24  記
台風15号
9/21午後から激しさを増した雨は深夜まで続き、石巻市内では地盤沈下の影響もあって床下浸水や各地で道路が冠水し、1万人以上の避難者が出ました。私の住んでる地区も、震災初日に一夜を明かした堤防から我が家の先までの道路、約1kmくらいが冠水してしまい、慎重に走れば何とか道路は使えるので孤立まではしなかったものの、辺り一面が水で震災後のような景色になってしまいました。排水路が壊滅状態なので当分の間、この水は引かない事でしょう。やれやれです・・・・・
台湾仏教慈濟(ツーチー)基金会  http://tw.tzuchi.org/jp/
10/20〜23日 市内各地域の公共施設において、上記の団体から「住宅被害見舞金(単身世帯3万円 2〜3人世帯5万円 4人以上世帯7万円)」が支給されました。海外の団体様からまでこういった支援が受けられ、大変ありがたく、涙が出る思いです。忙しさのあまり、受付時間終了から15分ほど遅れてしまい、私が会場に着いた頃には片付けが終わり、掃除をしている最中にも係わらず、笑顔で快く受け付けて下さいました。

台湾仏教慈濟基金会の概略
「(財)台湾仏教慈濟基金会」は1966年に證厳法師によって台湾の花蓮県で創立されました。台湾を拠点として広く世界に視野をおいた慈善団体で四十余年来、台湾において医療、建設、教育施設、社会文化などの事業で社会のために力を尽くしています。主な活動 バングラディシュ洪水(1991年) スマトラ沖地震津波(2005年) 中国四川省大地震(2008年) ハイチ大地震(2010年) などの救援活動、診療所や学校などの公共施設の建設、家屋建設、水源開発など多岐にわたります。(市からのパンフレットより)


なお、災害見舞金を包んでいた綺麗な台紙にはこう書き添えてありました。

敬愛する日本の友人の皆様、こんにちは。
大自然が悲鳴を上げている昨今、災害が頻繁に起こっております。台湾にいる私達もかつて1999年9月21日に台湾中部大地震という大きな災難に遭いました。證厳と全世界の慈濟メンバー 一同は今この時、皆様がどれほど悲痛な心境でいらっしゃるかが痛いほどわかります。そしてどんなにか皆様のすぐ傍らに付き添い、手を差し伸べていたわって差し上げたいかわかりません。
日本の慈濟メンバーたちは地震発生直後、救済指揮センターを立ち上げ、支部を人々に開放して人々の心を慰め、救援物資の準備や被災状況の把握に努めました。3月16日と17日には茨城県大洗町へ参って炊き出しを行い、3月24日から27日までは岩手県大船渡市と陸前高田市へ参り、被災状況の調査と毛布やショール、即席ご飯などの物資の配布を行いました。4月27日には埼玉県旧騎西高校に参り、福島第一原子力発電所の事故により避難されている福島県双葉町の住民を慰問し、毛布とエコ食器などの生活物資を配布しました。世界39ケ国の慈濟メンバーも募金活動をしております。
天の下、地の上に生きている人類はみんな地球村の家族です。今日、慈濟メンバーは世界の愛がつまった物資とお見舞金をお届けに参りました。皆様と共にこの災難を乗り越えられるよう願っております。
メディアを通して、日本の皆様が冷静で理性を持って災難と向かい合い、人々が力を合わせて難関を越えようとしている姿、そして大災難の中で互いに助け合う崇高な徳と心の美しさを見て、證厳は本当に感服申し上げております。天災人災に対してみんなが警戒すると同時に万物を大事にし、環境を守って大地がいつまでもその生態を保てられるよう、そして人々の心に常に善が存在するよう、願っております。
日本の福縁が広がり、人々の心が浄化されること、社会が平和で災難がなくなる日が早く来ることを祈っております。證厳と全世界の慈濟メンバーは心から友人の皆様の家が一日も早く再建され、希望に向かって進まれますことを祈っております。

台湾仏教慈濟基金会
釋證厳
平成二三年夏


裏表紙にはこう書き記されていました。

「自信と気力、そして勇気があれば、乗り越えられない難関はない。 證厳上人静思語より」


台湾仏教慈濟基金会さま
これほどの大災害、復旧の途に就いたばかりで各地域で痛々しい痕跡がまだまだ残っている中で、復旧にはどれ程の時が必要なのか、どれほどの人達が家を再建できるのか私にはわかりません。ですが私達被災者は、貴方がたからの真心を確かに受け取りました。何とお礼を申し上げて良いか言葉が見つかりません。ただただ感謝致します。本当にありがとうございました。
2011/ 10/23  記
2011/ 11/26  記
アナログ盤とCDのコレクションはほとんどが流失しましたが、瓦礫と泥の中から見つけたCDは全部で47枚ありました。半日ほど水につけてタワシでこびり付いていた泥を洗い流し、最後にアルコールで洗浄しました。アナログ盤も10数枚ほど見つけて保管してたのですが、まるで粘土のような細かい粒子の泥がこびり付いているのを見て諦めました・・・・・
10/17に国道398号線、新北上大橋の仮橋が完成し、通行できるようになりました。私は震災以来、この橋から海側へは行ってませんし、行きたいとも思いません。先日、仮橋が完成してから初めてこの橋を渡り、海側を見たら・・・・・ びっしりと並んでた家は一軒も無く荒涼としていて、ここから4〜5km先にあった海岸線は、ずっと先の海の真近まで行かなければ見れなかったのが橋の上から確認できる位置、わずか1〜2km先が海岸線と化していました・・・・・
被災地観光ツアー
先日、知人から聞いた話です。家の回りの瓦礫の片付けや泥出しをしている時、明らかに観光目的で来たと分かる団体が大型バスから降りてきたそうです。綺麗な服を着て、笑顔で片手にはカメラを携えて・・・ あろう事かその人達は津波で壊れた家をバックにピースサインで写真を撮り始めたといいます。泥まみれで片付けをしていた人達の中には、怒りがこみ上げてきて泥を投げつけた人がいたそうです。

被災地へ観光で来るなとはもちろん言いません。むしろ、多くの方に来ていただき、被災地と被災者の現状を写真や報道では無く、その目でしっかり見ていただきたいと思います。ただ、ほんの少しの配慮、気配りをお願いします。そこには着の身着のままで住む所も家財道具も・・・ 大切な家族さえ失った被災者がいるのですから。




Dead or Alive
震災直後からしばらくの間、人の安否が「生きているか?死んでいるか?」の二元で言われてた時期がありました。[彼は?」「大丈夫、生きている!」 「Aさんを見掛けなかった?」「・・・死んだ・・・」というふうに・・・・・  つい最近の事ですが、震災前によく利用してた食堂で働いていた女性に街中で 「電気屋さん!生きてたの!!!」 と後ろから声を掛けられました。その食堂も我が家ほどでは無いですが、被害のあった地域で、震災後は一度も行って無かったので、私もどうしているのか気になってはいました。  「良かった〜」 と生存を喜んではもらえましたが正直、震災で亡くなられた方には申し訳ない言い方になりますが、今でも生きてて良かったのか、死んだ方が幸せだったのか分からなくなる時があります。

こういった会話は今でも日常的に聞こえてきます。
英紙インディペンデント・オン・サンデー(13日付)の1面全面
たくさんの声援 応援 支援をありがとう
世界中の人々の心が一つになった日
最近になって見つけた数々の画像です。見る度に心が熱くなります。 〜ありがとう〜

※英新聞紙は一面に日の丸を掲載し、その中に日本語で「がんばれ日本」「がんばれ東北」の文字。

※日本のため、被災者のために多くの人が祈りを捧げてくれました。

※運用するには一日当り3億円かかると言われる原子力空母の長期派遣。(3億円/一日 試算方法は何種かあるようです) 3/13〜14頃の新聞に、この「ロナルド・レーガン」が被災地救援のために三陸沖へ向かっているとの記事を読んだ時は「米空母が?」・・・感謝の気持ちと同時に、事態の深刻さが信じられませんでした。と言うのも、その頃はまだまだ情報も不足していて、甚大な災害であるとは感じていたものの、震災発生からわずか1〜2日で米軍まで出動する程の大変な事態なのだという現実を突き付けられたからです。また、同新聞にはこの時点で60ヶ国以上、最終的には100ヶ国を越える国が支援を申し出てくれたとの記事に、言葉では言い表せない程の感謝の気持ちで一杯でした。
非常食3万食を米海軍のヘリコプターで海上自衛隊の艦船に空輸し、宮城県内の避難所へ自衛隊のヘリコプターが届ける友情のリレー
米軍の女性兵士と交流する女の子
2011年4月26日、宮城県石巻市の貞山小にて
小林努氏撮影
米軍は第7艦隊などの艦艇20隻、航空機140機、兵員18000人以上(最大時24000人とも)を被災地に展開し、4月末の作戦終了までの間に救援、捜索、輸送、補給、復旧活動など多岐にわたり大活躍してくれ、多くの被災者から「米軍ありがとう」と感謝されました。
3/12 全速力で三陸沖へ向かう米空母 「ロナルド・レーガン」
3/13早朝、仙台湾で海上自衛隊と合流し救援活動を展開。
クロアチアの反政府デモ隊、日本大使館前で足を止め黙祷
仙台空港近くの砂浜で松の大木を並べて「ARIGATO」の文字
帰還する米軍機へ向けてのメッセージ
女川町の地上に描かれた 「THANK YOU USA」
Pray 4(for) Japan
トモダチ作戦
天上の歌声〜ケルティック・ウーマン
震災以来、初めてCDを購入しました。流されてしまった2枚の再購入と、東日本大震災のチャリティーのために、特別に録音された「ユー・レイズ・ミー・アップ〜絆ヴァージョン」が収録された「ビリーヴ〜永遠の絆」です。いつかステージを観たいと思っているのですが昨年、来日していたんですね。約一年振りに聴く「ユー・レイズ・ミー・アップ」それも絆ヴァージョンでは最後に「教えて 海渡る風 祈りは時を越える〜祈りは時を越える」と日本語で歌っているのは心に沁みました。それにしても、現状ではPCでしか聴けないので音は・・・ウーハー付の外付SPを追加してはいるのですが、ひどいものです。(笑)「ここはこんな音だった」「この部分のバイオリンのリアルさは凄かったな」等、今でも失ったシステムの音は鮮明に覚えていました。沸々と自作の虫が騒ぎ出したようですが、当分は無理でしょう。
2012/ 2/8  記
画像は Arigato from Japan Earthquake Victims(YouTube)より
東日本大震災で支援をしてくれた国々へ「ありがとう」と感謝のメッセージを伝える動画が「YouTube」にアップされています。ご覧になった方も多いと思いますが、私が一番印象に残った場面の画像です。避難所へ緊急物資を届けに来たこの海兵隊員の目をご覧下さい。なんという優しい目、そして穏やかな顔でしょうか・・・・・彼らは言うまでも無く軍人です。戦闘員です。戦闘時にはこの穏やかな表情は消え、彼らの正義の為に鬼の形相にもなるでしょう。しかし、災害救援時にはこのような仏様のような表情にもなるのですね。
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